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信州上田の旅と歴史
上田・真田の旅       上田市真田

古城緑地広場
こじょうりょくちひろば
長野県上田市真田町長(おさ)
 信綱寺の前に歴史の丘という六連銭のモニュメントが建つ古城緑地公園があります。中央に流れている水は真田氏の歴史を貫く時間軸を示し、真田氏の発祥から大阪の役までを表現しているのだそうです。
古城緑地広場
 この一帯は「内小屋城」という旧いお城の一部だったそうです。赤石による六文銭旗は、大阪冬の陣における真田隊の「赤備え」を表わしているそうです。
古城緑地広場
 黒い石には真田一族やゆかりの人物の花押が刻まれています。
古城緑地広場



信綱寺
しんこうじ
上田市真田町長8100
 大柏山「信綱寺」は横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺として室町時代に創建されたそうです。横尾城の東の梅ノ木というところにあったようです。
信綱寺
 天文17年(1548)の上田原合戦で横尾氏が滅んでしまった後、真田幸隆の長男である信綱(のぶつな)が打越に移し、大光智照禅師を迎えて大柏山「打越寺」と改称させたようです。
信綱寺
 天正3年(1575)の長篠・設楽ヶ原合戦で信綱と次男の昌輝がともに戦死してしまいます。幸隆の三男で甲斐の名門・武藤家に養子に出されていた武藤喜兵衛こと真田昌幸が戻り、真田家の家督を継いだのでした。
 首長になった真田昌幸は兄の信綱の牌所として打越寺を改築し、大柏山「信綱寺」と兄の名前の寺に変えたのでした。
信綱寺
 真田信綱は天文6年(1537)幸隆の長男として生まれました。幼少時、武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍が侵攻した際に父・幸隆らと上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼ってと落ち延びました。
信綱寺本堂
 後に幸隆が敵であった武田信玄に仕官した時も一緒に付き従い、後に信玄の近習なりました。幸隆と共に信濃や上野を転戦し、永禄11年(1568)弟・昌輝と駿河国攻めの先鋒を担っています。
 永録12年(1569)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功もあげています。天正2年(1574)父・幸隆が病死したため38才で真田家の総領となりました。
 「武田二十四将」の一人に数えられ、信濃先方衆の筆頭に位置するところまで出世していました。三方ケ原の合戦でも活躍しましたが、5年後の長篠・設楽ヶ原合戦で織田軍の3千挺という大鉄砲隊の前に弟・昌輝とともに最期を遂げたのでした。
 信綱の遺体は甲冑姿のまま家臣の白川勘解由兄弟が持ち帰りここに埋葬したそうです。その時の血染めの陣羽織や昌幸から信綱寺に宛てられた書状などが宝物館に納められています。
信綱夫妻の墓
 白川勘解由兄弟は信綱の供養を済ませたあと、殉死したそうです。信綱寺の墓地には信綱夫妻、昌輝の墓の傍らに白川勘解由兄弟の墓も建てられています。
信綱夫妻の墓
 向かって左手前から信綱夫人、信綱、昌輝の墓です。戒名は信綱寺殿大室道也大居士、天正3年5月21日没、享年39才と書かれていました。
信綱夫妻の墓



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