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信州上田の旅と歴史
上田・塩田の旅       上田市(塩田)

生島足島神社
いくしまたるしまじんじゃ
長野県上田市下之郷701
 別所線下之郷駅のすぐ近くにある神社です。日本のほぼ中央にあたる、およそ1坪ほどの地面そのものを御神体としていて、信州の歴史上貴重な名社です。

 生島足島神社の歴史は古く、967年に施行された延喜式にも名神神社として記載されています。本殿は、周囲を池で囲まれた小島の上に立ち、古代の神社の形態を現在に残しています。 現在の社殿は昭和15年に国費をもって竣工したものです。内殿は平成10年9月「県宝」に指定されました。

 本殿に正対するように摂社諏訪社本殿(上田市指定文化財)が建てられています。
 この神社は最も古い神宮のあり方を伝えています。約1300年前に国造の位を朝廷から拝命した信州の豪族が宮巾より、生島の神、足島の神を分祀したものといわれます。

 神社の歴史は古く、平安時代初期にまとめられた延喜式に「生島足島神社二座名神大」と載っています。中世未期以降には、「下之郷大明神」「諏方法性大明神」などと呼ばれ、武田氏や歴代上田藩主の保護を受けてきました。寛政十一年(1799)に社名を生島足島神社に改めたそうです。

 大嘗祭〔だいじようさい〕・新嘗祭〔にいなめさい〕など宮中に伝わる神事に通じるところがあり、神社本殿の古い形式を伝えた建物と考えることができます。  
 生島神は万物を生育させる生国魂(いくたま)の神です。足島神は万物に満足を与える足国魂(あしくにたま)の神です。共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より日本総鎮守と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神です。生島神・足島神は日本国土生成の霊なのです。

 ここは歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年(806年)には神封戸の寄進があり、醍醐天皇の廷喜の代(901〜922年)には名神大社に列せられています。建治年間(1275〜1278年)には北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進しています。

 戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を再建する等、崇敬を表しています。
 本殿は池に囲まれた島の中ににまわりを老樹に囲まれて建っています。御扉の奥には御室と呼ばれる内殿があり、内殿には床板がなく大地そのものが御神体(御霊代)として祀られています。つまり御神体は本殿奥深くの二間四方の大地そのものなのです。

 この様に池をめぐらせて神域とされる島をつくる様子は「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、出雲式園地の面影を残すものです。日本でも最古の形式の一つとされるものなのです。

 天文22年(1553)、東信濃を攻略した武田信玄はまずここに社領安堵状を捧げました。さらに永禄2年(1559)再び願文を捧げ、自軍の勝利と上杉謙信の滅亡を祈願しています。そして2年後に川中島の大合戦が行われました。
 信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10年(1566〜1567)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達をここに集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が83通残されており、国の重要文化財に指定されています。

 武田信玄が改めて家臣に忠誠を誓わせたのは、長男義信との不和による家臣団の動揺を抑えるためと思われます。
 県宝の歌舞伎舞台が現在は起請文等の展示場として使用されています。



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