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信州上田の旅と歴史
上田の神社         上田市

科野大宮社
しなのおおみやしゃ
長野県上田市常田2−21−31
 科野大宮社は延喜式以前からこの地にある古い神社です。地元の人からはおおみやさんと親しみを込めて呼ばれています。
ケヤキの巨木がシンボルです。
 崇神天皇の御代、建五百建命を科野国(信濃国)の国造に任命しました。上田に国府を置き、国魂の神である科野大宮社を創祀して住民の安全を祈願したのです。信濃国総社でもあったようです。
科野大宮社拝殿
 天慶元年(938)平将門の乱が起こりました。平定するために送られた平貞盛の軍と戦になりました。国分寺と千曲常田河原が戦場になり、信濃国分寺諸堂と科野大宮社の社殿楼門神庫は焼失してしまいました。付近の民家数百戸も焼け出されたそうです。
 天正13年(1585)8月、徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世らを将とし、信濃・甲斐などの軍勢もあわせ総勢7千の大軍を真田昌幸の居城上田城攻撃に向かわせました。これが第一次上田合戦です。
 徳川家康は羽柴秀吉と対立している時でした。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いがあり北条氏と組む必要がありました。北条との講和の条件に、真田昌幸が治めていた沼田を北条に渡す一項があったのです。
 この時、真田昌幸は徳川家に臣従していましたが「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」沼田の引渡しを拒絶したのです。
 昌幸の計略で徳川軍を城下に入れ、町屋に火を放ったのです。折からの風にあおられ、火は徳川軍を襲いました。柵を随所に設けてあったので動きが取れない大軍に向かって鉄砲が一斉に放たれ総崩れとなり撤退することになったのです。この一帯はその戦いの激戦地になり再び焼失したのです。
 境内にある子安社です。 嘉永5年(1853)上田藩主松平氏が佐久郡三塚子安社を勧請したものです。
子安社
 上田城三の丸に社殿が創建され鎮座されていました。明治4年(1871)藩が廃止された時に矢出沢川より南の鎮守の科野大宮社に移されたということです。
子安社
 城中にあった稲荷社です。祭神は保食神(うけもちのかみ)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)だそうです。五穀豊穣の農耕の神様で殖産、商工業の繁栄の守護神だそうです。
城中稲荷社
 松平氏が慶安年間(1648-1651)丹波亀山城在城の際創設されたものだそうです。宝永元年(1704)上田城に移封された時に三の丸に遷宮され、廃藩の明治4年(1871)子安社とともにここに移されたのでした。
城中稲荷社と本殿
 六所明神社は天正年間中(1573-1590)上田城築城の際、ここに遷座されたそうです。信濃国分寺と、この神社の修理だけは直接上田藩の手によって行なわれたそうですが六所明神社が遷座されていたことが関係しているようです。
六所明神社
 御神木の槻の木です。枯れた御神木を惜しんで元禄5年(1692)仙石氏が屋根を掛けたそうです。宝永7年(1710)松平氏が掛け直したそうです。記録によると、樹の勢いが盛んな頃は朝日が昇る時、木の影は千曲川の川原まで達し、夕日が沈む時には国分寺にまで及んだという伝説があるそうです。
御神木
 御神木は江戸時代の旅行案内絵図で上田を描いた場面には必ず登場したそうです。
 現在の科野大宮社の本殿は万延元年(1860)藩主松平忠礼が拝殿とともに再建したものだそうです。
科野大宮社本殿



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