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信州上田の旅と歴史
上田市内探索        上田市

上田城跡公園
うえだじょうせきこうえん
長野県上田市二の丸3−3
 上田公園は、市民の憩いの場所として、大勢の人が散歩、散策にきます。城址公園として解放されている.二の丸には、山本県(かなえ)記念館や市立博物館があります。
 本丸には、真田石・真田神社・真田井戸などがあります。堀は本丸堀、ケヤキ並木になっている二の丸堀、百間堀などが残っています。春は桜の名所として賑わいます。
 維新後復元された国史跡指定の三基の櫓と櫓門が残されています。戦国時代に真田昌幸が関ヶ原に向かう徳川秀忠の軍勢をこの城でくいとめ、到着を遅らせたことで有名です。

 加舎白雄の詠んだ歌の石碑が上田公園入口にあります。生まれた家の後もそこから見えるくらいの距離にあります。白雄(1758〜1791)は本名を吉春といい、与謝蕪村と並び称される天明時代の俳人です。元文3年上田藩の次男として江戸深川に生まれ鳥酔、鳥明に俳諧を学んで芭蕉俳諧の復興、定着に生涯をかけた人です。

 二ノ丸東虎口の前の「二ノ丸橋」からのケヤキ遊歩道です。本丸以外の堀は付近の河川の旧河道を用いた空堀でした。かつてここに線路が敷かれ、駅がありました。


上田市立博物館
うえだしりつはくぶつかん
 養蚕業の蚕室をかたどった建物で、上田地方の中世以降の歴史・民俗資料および自然資料を収蔵、展示しています。

 特色ある展示品としては歴代上田城主の甲胄のほか上田藩関係の資料、正保の信濃国絵図(県宝)などがあります。




山本鼎記念館
やまもとかなえきねんかん
 山本鼎は自由画教育運動や農民美術運動を上田を拠点に奨励した大正時代の画家、版画家です。

 ここには現代の農民美術作品のほか洋画や油絵、版画作品などと山本鼎関係の資料を展示しています。



赤松小三郎の石碑
あかまつこさぶろうのせきひ
 赤松小三郎は幕末期の上田藩士でした。洋式兵学者として、また議会政治の必要性を早くに説いた人物として知られています。赤松は上田藩の出身で、佐久間象山に蘭学を学び、勝海舟の門人でもあった人物です。一時期は薩摩藩お抱えの軍学者になっていました。「英国歩兵練法」という訳述書を出したことで有名になり、薩摩藩から招聘されて、軍学を教えていました。
 慶応3年(1867)9月3日,帰宅の途中,薩摩藩士の「人切り半次郎」と異名をもつ桐野らに暗殺されました。内部情報が幕府側に漏れることを危惧して暗殺したと桐野の著「京在日記」の中で述べています。


真田神社
さなだじんじゃ
 天正11年(1583)上田にこの平城を築いて城下町を造った真田父子を主神としています。江戸時代に民政を尽くした仙石・松平の歴代藩主を祭神としている神社です。
 殊に十数倍の大軍を二回に亘り撃退して日本一の知将と謳われた真田幸村の神霊は今も智恵の神様として崇められています。



真田井戸
さなだいど
 真田境内の奥に「真田井戸」と呼ばれる井戸が残っています。直径2m、深さ16mという大きな井戸で、城内にある唯一の井戸です。この井戸には抜け穴があり、城の北にある太郎山の麓の砦とつながっていて、敵に包囲されても城兵や兵糧を自由に出入りさせることが出来たと語り継がれています。


しだれ桑
しだれくわ
 クワの名前は蚕葉(こは)が転じたものだといわれています。よく見られるのはヤマグワかその一種だそうです。
 しだれ桑は昭和9年(1934)に小県(ちいさがた)蚕業校で育苗されました。蚕都上田の象徴です。今でも古い農家などに行くと家の造りが蚕を飼うように屋根の上に小さな屋根が乗っている形式の家を見ることができます。 




武家屋敷土塀
陸上競技場近くにあった武家屋敷の土塀です
現在は違う壁になってしまっています。



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