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信州上田の旅と歴史
上田の旅          上田市

上田城
うえだじょう

 上田城は真田昌幸(幸村の父)が天正10年(1582)、上田盆地の中心で千曲川支流の尼ケ淵の河岸段丘上に上田城の建築を始めました。平城で「尼ヶ淵城」とも呼ばれています。
 もともとは在地土豪の小泉氏の古い城館があったといわれる場所でした。現在は一帯を公園として整備し市民の憩いの場ともなっています。
 天正13年(1585)には一応の完成をみたものと考えられています。
 この上田城の真田氏が二度にわたって徳川の大軍の攻撃を受け、みごとに撃退させたことで天下にその名がとどろきわたったのです。

 
大手門の左手の南櫓。これも民間に払い下げられて、一時期は遊郭になっていました。
 武田氏滅亡直後の天正10年(1582)、徳川家康と北条氏政・氏直は武田の旧領をめぐって甲斐、信濃、上野で対陣しました。その後和議が成立し、甲斐・佐久・諏訪は徳川領、上州は北条領と決められました。 
尼ヶ淵に面した、本丸西虎口に建つ本丸西櫓です。この櫓は仙石氏が築城した当時からここにある、正真正銘の現存櫓です。実に古風で、江戸初期の貴重な建造物といえます。
 家康は真田昌幸に上州沼田領を北条氏へ明け渡すように命じました。武田家家臣だった頃、沼田も真田家が治めていたのです。昌幸は沼田領はわが父祖伝来の土地であるといって拒否しました。そして上杉景勝方に組するようになったのでした。
 家康は天正13年(1585)8月、鳥居元忠、大久保忠世らを中心に信濃・甲斐の国人衆を加え七千の兵で上田城に迫りました。昌幸は上杉方に信繁(幸村)を差し出し、上杉景勝を後ろ盾としました。昌幸は上田城に、嫡子信之は戸石城に籠もりました。そして丸子城、矢沢城にも兵を配置しました。

 攻め寄せた徳川勢は7千余、迎え撃つ真田勢は2千人弱であった。しかし、複雑な城下町や真田氏の巧妙な罠や、伏兵などの戦術によって徳川軍は思わぬ大敗となり死者を1300人余もだしたといわれています。これに対して真田氏の死者は40人ほどであったといいます。
上田城の顔、大手門と北櫓です。南櫓と北櫓は明治初期に民間に払い下げられて市内に移築されていたものを、昭和18年から24年にかけて現在の場所に移築復元したものです。大手門は近年の復元です。


慶長5年(1600)6月、徳川家康は会津の上杉景勝討伐の名目で出兵しました。7月に石田三成が大坂で挙兵、下野小山の評定で、徳川軍は会津から上方に進路を変更しました。真田昌幸は、信繁と自分は石田三成勢(西軍)につき、信之は徳川家康勢(東軍)につくという密議をしました。
 東軍は徳川秀忠率いる徳川本隊3万8千を中山道、それ以外を東海道に分けて西上しました。昌幸は上田城に籠城、9月2日、徳川秀忠は小諸城に着陣し、信之と本多忠政を遣わせて昌幸に対し降伏を勧告しました。恭順の意を示したかに見せながら籠城し秀忠を怒らせました。本多正信らの諫言にも耳を貸さずに上田城を攻めたてます。

 上田城攻撃が開始された後、昌幸は虚空蔵山に伏兵を置いて秀忠本陣を急襲し、上田城内の城兵が徳川軍攻撃をしたため大混乱に陥いりました。結局、秀忠は上田城攻略をあきらめ、抑えの将兵だけを残して中山道を西上しました。9月15日の関ヶ原合戦には間に合わず家康の大目玉を食らうという、なんとも情けない失態を演じてしまいました。
 合戦後、石田三成は斬首され、真田昌幸・幸村親子は紀州九度山に蟄居を命じられました。上田城は破却されて、真田信之に与えられました。幸村はその後の大阪冬の陣・夏の陣で徳川軍に苦汁をなめさせ「真田、日本一の兵(つわもの)」と言われました。また信之は松代に移封になり上田を後にしました。
 元和8年(1622)真田信之に代わって仙石忠政が信濃小諸から6万石で入封しました。忠政は徳川幕府の許可を得て、寛永3年(1626)から上田城の再建に着手しました。現在の上田城はこの時に造られたものなのです。宝永3年(1706)仙石氏三代政明が但馬出石に転封されました。代わって出石より松平忠周(ただちか)が5万8千石で上田城主となり、以後、上田城は松平氏7代の居城として明治維新を迎えました。 

 上田城本丸東虎口櫓門の正面右手の石垣にある。高さ約2.5m、横約3mの大石、真田昌幸が築城の折り柱石として据えたものと伝えられ真田石と呼ばれています。真田信之が松代へ転封にあたって父の形見に持ち運ぼうとしたのですが、大勢の人の力をもってしてもびくとも動かなかったと伝えられます。



二ノ丸北虎口の石垣です。最近復元されたものです。

 東虎口櫓門をくぐると本丸跡になっています。そこには真田神社が建っています。
 真田境内の奥に「真田井戸」と呼ばれる井戸が残っています。直径2m、深さ16mという大きな井戸で、城内にある唯一の井戸です。この井戸には抜け穴があり、城の北にある太郎山の麓の砦とつながっていて、敵に包囲されても城兵や兵糧を自由に出入りさせることが出来たと語り継がれています。



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